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加速する時間

プライベート生活も会社のプロジェクトも金融危機も、なんだか何もかもが全力疾走しているような日々である。

長女誕生からは、あっという間にもう7週間も経過してしまった。すくすく元気に育っており、体重も生まれたときから50%(!)以上も増えた。

俺たちも新しい生活に慣れるまでなんだかいつもバタバタしていたので、生まれたのがまるで昨日のこととのように感じられる。まあ、”新しい生活”への順応が一番大変なのは長女なんだけどね。なんたって生まれるまでは、肺呼吸すらしていなかったのだから 笑

夜に泣いておむつを替えミルクをあげるのも、当初毎晩2回だったのが1回になってきており、夜の睡眠時間が少しずつ増えているので、いい傾向だ。肉体的には本来つらいはずなのだが、娘のかわいさと娘から親がもらうエナジーというのはやはり大きいようであり、逆に日々の生活にメリハリがついて、不思議なことにあまり疲れがたまらない

ところで、会社のプロジェクトと金融危機というのは、一見関連がないようで、実は奥深くでは関係している気がする。

プロジェクトが今忙しいのは、元々スケジュールが決まっていてそれに従って準備してきたからであり、どの時期が多忙であるかは予めわかっていたわけだ。一方、金融危機にスケジュールなどあろうはずもなく、今後どうなるかは誰にもわからない。

ただこの異常な状況では、日々の業務がどんなに忙しくても、金融市場の動向チェックには一定の時間とエネルギーを割かざるを得ない。会社も個人生活も、近い将来大きく変貌する可能性があるからだ。

だからネットの記事だけではなく、Die Zeitなどのしっかりした週間新聞を読んだり、本を購入して読むこともやっている。欧州内出張の時には、ロビーにある新聞複数紙をつかんで、わずか1時間半の飛行時間に目を皿のようにして読んでいる。

しかし今回はギリシャなど単発の問題ではなく、欧州レベル、米国、中国、日本などグローバルな問題で錯綜した問題であり、様々なかく乱や情報操作もあるので、”本当の状況”の把握は容易ではない。真実が通常メディアではなく、小説やネットにしかないこともある。また、情報源はどれも地理的・内容的・時間的な意味で断片的であるから、それをパッチワークのように繋げていく作業は各人でやるしかない。

それでも、複数の情報筋を日々追っていくことで、世の中の動きでなんとなく見えてくるものがある。

会社がひとつの難関(=山)を乗り越えたときには、誰もが大きな山だと思っていても、後で本格的な金融危機が襲ってきたときには、「あのときの苦労はかわいいものだった」と思うのだろう。

そのための「訓練」が今なのだと考えて、なるべく頭も体もフル回転させて、まずは目の前のプロジェクトをしっかり完遂できるように頑張っている。

明日がどうなるかもわからない、今の時代。とにかく1日1日を大切に生きようと思う。

ドイツで出産する(2): 妊娠~出産前時期

妊娠中はドイツでも日本など各国と同様に、妊婦は産婦人科で定期健診を受ける。定期健診は最初は月に一度程度であるが、最後の2ヶ月間は週に一度、そして予定日を過ぎると2日に一度になる。

産婦人科は原則個人開業の医者であり、住宅地の2階部分などに居を構えていることが多い。歯医者や目医者や内科などに比べると、一般的に来客(患者!?)数も多く、なかなか忙しそうである。

一箇所当たりの規模は小さいので、個人的なケアを受けられること、アポさえ入れておけば待ち時間がかなり少ないことは、大きなメリットである。

忙しいからといっても、診察室に入ってドアを閉めると医者の態度は誠にプロフェッショナルであり、妊婦さんのメンタルにもちゃんと立ち入って、ゆっくりと話を聞いて丁寧に診察を行い、また、相談に乗ってくれるので、とても安心できる。また、ほとんどの医者は英語が堪能である。

産婦人科を夫婦でやっている人もいる。Aちゃんが通っていた産婦人科は夫婦経営であり、夫婦ともに産婦人科医で、どちらかを指定したいときには 受付で”Mr. xx ” ”Mrs. xx”と呼んで区別していた。

夫婦なので当然休暇も同時に取るが、長期間クリニックを開けるわけにもいかないので、4週間の休暇の最初の1週間は夫だけ、最後の1週間は妻だけとし、コアの2週間だけクリニックがお休みになるように、ちゃんとスケジュールしていた。

ちなみに、男性の産婦人科医にかかるのを恥ずかしいと思う女性もいるようであるが、Aちゃんは、「男性の方が、自分の経験できることでないので、もっと丁寧にやってくれる」という意見。確かに俺が何件かの産婦人科医で見た印象でも、男性のほうが対応やタッチが丁寧なことが多いように見える。

ドイツでは薬を出す場所は薬局であり、それはクリニックとは全く別の場所・組織であるため、医者に行くと薬を出されてしまうということはない。薬は処方箋をもらって自分で薬局に行って買うものであり、その領収書を保険会社に回せば全額戻ってくるので、実質的な負担はない。

面白いのは、検査に使う薬も妊婦さんが自分で事前に買って産婦人科に持参しなくてはならないことだ。事前に処方箋をもらい、それを提示して薬局で買って持ってくる。クリニック内にストックはない。

ところで、ドイツでは産婦人科と生む場所は別々の場所にある。

”生む場所”というのは、施設の整った病院であり、ハイデルベルク市内に4箇所しかない。そのうちどこがいいのかは、個人で判断することになる。

俺たちは、ハイデルベルク大学付属病院とカトリック系の病院を訪れて案内してもらい、総合判断としてはカトリック系の方で出産することにした。ここはアメリカ軍関係など外国人の患者がとても多く、”ほぼ全員”英語ができる、看護婦が親切、駐車スペースがある、などのメリットがあるからだ。

生まれる間際になると、果たして産婦人科か病院か、どっちへ行けばいいのか!?と悩むことになる。普段検査に行くのは産婦人科だけれども、そこで産気づいてしまってはまた移動の手間とリスクが発生することになる。また、出産は夜や明け方になることが多いから、産婦人科は開いていない。このあたりも自己判断になる。

妊婦はただでさえもいろいろと不安があるなかでこの制度はどうかと思うけど、それだけ自己責任でやってくれということなのだ。

次回は、”生む場所”、つまり病院についてです!

ドイツで出産する(1): なぜドイツなのか?

ドイツに住んで通算4年半になる。ドイツでいまだにいろいろ「初体験」が多い中で、強烈な初体験をした。それは、「ドイツで産む」ということだ。

もちろん、生んだのは俺自身じゃなくて奥さんであるが、妊娠・出産・(退院までの)産後という波乱に富んだ時期をドイツという国で体験したというのは、きっと何かの縁なのだろう。

今回はシリーズで思うところを書いてみたいが、まずは、ドイツで生んだ理由について・・・

妊娠は10ヶ月に及ぶ体内の胎児生育の時期であり、それに伴い女性はホルモン変化など様々なことを経験する。

安定期に入るまでの妊娠初期は、食べ物の嗜好が急に変わり、匂いに敏感になり、また、体調もすぐれないのが通例である。自分で料理しようにも、匂いに耐えられないので厳しい。

俺たちがドイツにいて一番つらかったのは、この妊娠初期であった。普段は和洋中何でも食べるグルメのAちゃんだが、この時期は食べられるものも限られ、なるべく幼少期に口にしたものが食べたくなった。料理上手な夫でも持っていれば話は別なのであろうが、台湾の通常の食事をドイツの外食で探すことは不可能に近いからだ。

ドイツで手に入る中では、タイ・ベトナム・和食・中華などのアジア料理は割に味が近いものであるが、味付や料理としての完成度はアジアの本場に比較すべくもない。それならと、幼少期にも時折食べていたハンバーガーなどにも挑戦してみるが、食のバラエティーも必要なので、食べられるものの数がどんどん減っていった

結局、早めに台湾に帰って静養し、安定期にまたドイツに戻るという選択肢を取った。台湾に帰るとやはり食事が口に合うようで元気になってきたので、これは正解だったのだろう。

周りにいた、ほぼ同時期に妊娠していた台湾女性や日本女性たちも、この時期はほとんど帰国しているから、食事の問題は共通のようだ。安定期に入ると食事の問題は少なくなるが、大変な時期には慣れた環境がいいことから、一旦帰るとその後出産まで祖国にいる女性の方が大半である。

俺たちはやはり夫婦一緒に入れる環境で出産を迎えたかったので、Aちゃんにはその後ドイツに戻ってきてもらった。

”ドイツで出産する”という選択肢は、実はかなり安心できるものである。

まず、ドイツは医療水準が高い。日本も昔はドイツから医学を学んだものであり、いまだに医学用語はドイツ語が中心である。特にハイデルベルクは大学町であり、中東からのオイル長者など海外の富豪も手術・治療のため入院するほどであり、レベルはトップクラスである。

第二に、ドイツ人は勤勉である。言ったこと、約束したことは必ずやってくれるし、何度でもいやな顔ひとつせず教えてくれる。縦横の人の連携もスムーズだ。間違いや勘違いは非常に少ないし、何度も説明する必要もない。

特に医療機関に勤めている人のプロ精神の強さには感銘させられることがある。医者・看護婦・事務員に至るまで皆自信と責任感を持って働いており、しかも誠意ある対応をしてくれる。日本によくいるような、自信なさげで謝ることしかできず、何でも上に伺いを立てるようないらつく対応は、ここではありえない。

第三に、ドイツ人は清潔好きである。個人宅、ホテル、病院、会社など、どこも丁寧かつ頻繁に清掃されている。奥さんが入院した病院では、病室に毎朝2-3名の清掃員が来て、テーブルなど調度品も全部よけて拭き掃除をしてくれた

第四に、保険制度が整っている。日本や台湾の制度では”病気”と診断されなくてはカバーされないような通常の出産関連費用が保険でちゃんと支払われる。特にプライベート保険の場合には、待遇がよくやカバー範囲も広いし、100%カバーであるため自己出費は例外的である。

第五に、待ち時間が少ない。アポ入れができ、その時間に病院や医院に行けば、待っても10-15分程度である。検査間で待つ時間も10分以上は稀である。日本や台湾のように、朝早く整理券を引きに行き、人ごみの中で何時間も待つようなことはない。妊娠のようなデリケートなケースには、とても大事なことである。

最後に、産後のケアの制度がしっかりしている。また後で触れるが、助産婦(といっても産後中心)の制度が保険でカバーされており、産後1ヶ月ほど毎日~数日に一度、自宅でヘルプを受けられる。

俺たちの場合は夏の盛りの出産になったので、暑苦しい台湾よりも涼しいドイツでの出産の方が体への負担も少ない。

ただ、ドイツでの出産に唯一欠かせない条件がある。それは家族の出張サポートだ。特に出産前後の時期を、誰のサポートも受けずに過ごすというのはかなりリスキーであり、この時期に最低1ヶ月は誰かがドイツに来てもらえることが前提になる。

うちの場合にはAちゃんのお母さんやお姉さんが来てくれているので、とても助かっているが、誰も都合がつかないためにドイツでの出産をあきらめている女性も友人に数名いる

次回は、ドイツの妊娠・出産前時期のケアについて書いてみたい。

”海外”は日本の延長なのか!?

ネットの報道記事を見て笑い転げることは少ないが、俺的には久々に大ヒットがあった。 

>時事通信: 政府は26日、東日本大震災や福島第1原発事故に伴う海外での風評被害を払拭(ふっしょく)するため、関係府省などでつくる連絡会議を設置し、首相官邸で初会合を開いた。政府を挙げて安全性をアピールし、「日本ブランド」の再構築を目指すのが狙い。会合では、海外の著名人を起用したPRや、インターネットを通じた外国語での情報発信強化などの提案があった。政府は、まとまった施策から随時実施する方針だ。 

”連絡会議”っていうから、さぞかし学歴も地位も給料も高い方たち、しかも国を代表するような偉い人が大勢集まって雁首を揃えているんでしょ?

それで出てくる結論がこれだというのを見て、もう涙が止まらない位笑ってしまった。

何が面白いのか説明の必要はないと思うけど、まず風評ではなくて実害であることは、120%明確である。

操作されているはずの大手メディアでも、セシウム牛など実害情報が山のように出てきている。子供を中心とする放射能による甲状腺異常や白血球低下などの健康被害は、今や福島や首都圏だけではなく関西でも発生し始めている。それでも根拠なき”風評”だと信じたい、いや、信じなきゃ、という人達の神経の太さには、本当に恐れ入る。

東京が空襲で焼け野原になってもまだ日本が勝つと信じていた人が半分以上いるような国だから、これは別に不思議なことではない。問題は、そういうKYが”平時の”今の日本政府の中枢を占め、決定を下していることだ。

”海外の有名人を使ってアピール”という部分は、もう泣けるほどに日本人的な発想である。確かに日本では、ウケのいいタレント(ないしキャラクター)を使って宣伝すればそれなりに効果がある。元本を使ってしまっている郵便貯金でも、ちゃんと預金が集まる。むしろ、物事の本質など議論しないほうがいい。そういうことは”偉い人”に任せておけばいいからだ。

でも日本の外で、そんな子供だましが通用するはずはない。なぜって? 外人は、自分で考えて自分の基準で物事を判断するから。納得できる説明と実証がないと信用しない。日本の外の世界の人は、誠に残念ながらそんなにアホじゃない。

さらにグッとくるのは、”外国語で情報発信しましょう”という下り。彼らの思考回路はわからないでもない。政府発表以外はガセネタかもしれない。だから正しい情報として政府発表をしているけど、日本語だから伝わっていないと思われる。だから、英語にすれば大丈夫なはず・・・

今どき、放射能垂れ流しの日本政府の発表を信用する外国はないのだから、それを何語に訳しても全部同じことじゃん!! 各国は自分の検査機で独自に検査して、ダメなものは通関させずに送り返すだけだ。

だいたい、ちゃんと信用できる真摯な対応を政府がしているのなら、情報発信など日本語だけで十分なはずだ。日本にいる外国の報道陣で、日本語ができない奴などいない。それじゃ飯を食えないからだ。日本語は使用人口で世界第9位の大言語。堂々と使えばいい。

政府を司る偉い人がたくさん集まって会議を繰り返して、それでもこういうトンチンカンな結論になってしまうのは、”海外は日本の延長”だと考えているからに違いない。彼らは、自分たちは正しい、海外の人も話せばきっとわかってくれる、と思い上がっている。

でも、海外の人を説得したいなら日本人的な思考をしていたのではハナッから全然ダメなんだという根本的事実を認識しない限り、こういうLost in Translation的な禅問答というか、無駄な会議が続くことになる。

お偉方さんたち、いいからもう適当にやめて、早く家に帰って家庭サービスでもしてあげてよ! お母さんたちは泣いています。せめて近くにいて慰めてあげて下さい。それが一番ニッポンのためです。

ぜひ、お願いしま~す ~(^◇^)/    

庭で初バーべキュー

お世辞にもアウトドア型とは言えない俺たちだが、先日人生で初めてあることをやった。

R0019266なんと、自宅の庭でバーベキュー

今年のドイツの春は例年に比べてとても気温が高く、数日に一度は30度を超えるほどだ。

このハイデルベルクの庭付きの家を借りてもう1年半が経つけれど、実はバーベキューをしてもいいと大家さんから聞いてグリル台も貸してもらったので、あとは実行あるのみ!

俺はバーベキューを自分で企画したことがないので、木炭や焚き付けやバーナーを調達するのも初めて。会社へ行く途中の田舎のスーパーでは、この天気のおかげでどこでもバーベキューがはやっているようで、バーベキュー用品が入口に山と積まれている。

R0019259声をかけると近くの友達もすぐ集まって計8人で開始。うち女性4人は全員台湾人なので、一部は台湾風の味付けをしてもらうことに。

R0019285こちらはタイ風サテーの味付けで食べた串焼き。おいしかった~

R0019280ドイツのバーベキューで必ず食べるのは、やはりソーセージ。炭で焼くととてもジューシーで旨い。

R0019291そして仕上げはチキン。グリルの火力が弱かったので、完全に火が通るまで30分以上かかったが、待ったかいは十分にあったよ。

デザートに田舎の道端で販売している採れたてのイチゴとさくらんぼを頂くと、もう完璧!

バーベキューは準備や後片付けが大変そうだという先入観があり、自分の家でやるよりも誰かが企画したバーベキューに参加させてもらった方が楽ではないかと思っていたが、実際に自分でやってみるとその方が充実感が格段に大きい。なんだか、やみつきになりそう (@^^)ゞ

今度はいつやろうかなあ~

事務手続にみるニッポンの性善説

1年間に2度も海外引越をやると、日本でいろいろな事務手続を徹底的に体験させられる。

大手企業の日本人はなぜ杓子定規のようなサービスしか提供しないのかという疑問に以前はどうしても回答を見出せなかったのであるが、究極的には性善説的価値観があるからという自説に辿り着いた。

例えば料金の支払に納得できない理由がある場合、日本では議論したくても議論の余地さえない。大手会社でも苦情申し立てをする窓口や受付住所すらなく、電話対応や店の窓口では型にはまった回答を繰り返すばかり。書面主義の欧州では考えられないことだ。

議論がかみ合わないという以前に、こちらの主張が彼らのマニュアル外である場合、最初から耳を貸さない。顧客の見解を異論は異論として理解し、それを受けて自社の立場から筋道だてて相手が納得できるように反論するということすら、思い浮かばないようだ。

彼らに悪気はない。対応や言葉遣いは丁寧だ。単に、「ちゃんと議論する訓練を受けたことがない」からイメージできないだけだ。

裁判したら間違いなくこちらが勝ちますよと明言しても、「そう言われてもこちらでは何とも言えませんが、とにかく弊社では・・・」となる。

じゃあ顧客は欧米より不当に不利な立場に置かれているのか? 必ずしもそうではない。非常に日本的な解決法がある。こちらも負けじと一方的な論理で突き通せばいいだけだ。つまり、単純に支払いを止めればそれで済む。口座の差し押さえや裁判はしてこない。

そもそも電話で、「そういう場合、口座の差し押さえをしますか?」と質問すると、「いえ、そこまではやっておりません」と正直に答えてくる。涙が出るほど親切だよねえ~ 性善説とはこのことだ。

もちろん、料金を払わないとサービスが停止されたり、次回同じサービスを使うときに利用できないこともあるが、この2点を押さえしっかり了解した上で実行するなら構わない。相手の対応は粛々とマニュアルに沿った機械的なものであり、全ては透明な手続である。

ちゃんと議論して理論的に勝ったときと比べると、なんかいまいちすっきりしないハッピーエンド。しかし、このような煮え切らない終わり方に我慢ならないようでは、日本では長期間生活できない。

有名なNHK料金などは最も顕著な例だけど、要するに単純に払わなければそれで解決する事項は多い。テレビがないと一方的に主張してインターホンを切ればいい。払わない「顧客」に対する徴収側のマニュアル整備がされていないからだ。払わなくても、リスクは限りなくゼロに近い。

取立て側と議論する必要も、説得する必要も、法廷で争う必要もない。払ったら負けで取り返すことは不可能だけど、払わなかったらこっちの勝ち。実際、何の「サービス」を受けているわけでもないし、税金のような強制力もない。それなのに60%以上の家庭が自発的に払っているというのは驚異的事実! こんな実態は、海外ではまずないだろう。

自発的支払の対象が献金だというのなら、海外でも一般的だ。自分が納得できるポリシーで援助活動をしている団体に好きな金額を寄付するわけだから、あげる方ももらう方も気持ちがいい。素晴らしいお金の使い方だ。

しかし、NHK料金を「納得できないで、いやいや」払ったらどうだろう? そもそも、払う必要もないのに!! 生きたお金の使い方とは、とても思えない。

それにしても日本人は、きちんと互いに議論をしながら物事を詰めていくということが苦手な人が多い。いい事かもしれないが、「マニュアルでそう指示されていない限り」取れるものは顧客からちゃんと取ろうという意欲もゼロである。

自分の生活圏の狭いコミュニティーや会社外であうんの呼吸でわかりあえない相手が出てきた場合に議論や説明もまともにできないのでは、外国へ一歩でたら大変なことになる。弱い立場ならたかられてカモになるし、上の立場なら周りから煙たがられるだろう。

国内では気を使って神経をすり減らしつつ海外に出るといつのまにかKYになってしまっている「いい人」の日本人を見るたびに、俺は心が痛む。

海外で本当の意思疎通ができる日本人をどうやって育てていくのか、これからの大きな課題であろう。

東京のお父さんを2週連続体験

Aちゃんのお姉さん家族4人が今週半ばまでの2週間、台湾からうちに遊びに来ていた。まだゼロ歳Kodomo7の女のKodomo6子と活発な6歳の男の子を連れての訪問。

俺たちも台北に行くたびに数え切れないくらいお世話になっているから、ちょっとは恩返しになったかな~ 

家も賑わい俺たちも楽しんだけれど、今回は東京で頑張るお父さんの苦労を実体験する場にもなった。ほんと皆さんお疲れですねえ。

東京という街は非常に子供に冷たい。夫が日中いない間にお母さんが外出するのは一苦労である。ベビーシッターは高価で簡単に見つからない。子供を連れて移動しようとすると、電車は朝晩込んでいるしベビーカーも持ち込みにくい。

電車で赤ちゃんを抱えて立っていても席は譲られないし、子供が泣くと周囲の視線は冷たい。かといって全部をタクシーで移動すると非常に高くつく。車で移動すると渋滞と駐車場の問題で悩む。おむつを取り替える場所は少なく、時には行列ができている。夫の帰りも一般に遅く実際には家事に参加できない。一般のレストランは子供お断りか入りづらいので結局ありきたりのファミレスしか行けない。俺も今回は慣れないジョナサン、不二家、ココスをはしごしたよ (∩_∩;)P 

つまりこの街では母親が「子育て専門」に特化せざるを得ず、自分の人生をエンジョイしながら子供も育てるという余裕を持つのは至難の業なのだ。

家族でお出かけということになるとこれまた一大事! 先々週末と先週末は俺とAちゃんも一緒に週末に「行楽」に出かけたが...

先々週末は金曜から土曜にかけてディズニーランドとディズニーシーへ。電車で出かけたのだが、家まで小1時間かかり夕刻の帰り時間帯の電車が込んでいることから、子供がいると現地に宿泊せざるを得ない。園内は非常によく組織されベビーカーも各アトラクションにちゃんと置き場が用意されているが、なんせ夏休み期間の週末だから当然のごとKodomo3く大混雑。Kodomo4

子供はすぐ脚が疲れるので時に抱きかかえたりせざるを得ず、食事も子供のおなかが空いたら急いで取らせなければならない。赤ちゃんが母乳を欲しがったりうんちをしたり眠くなって泣いたら、混雑の中でも即対応が必要だ。

赤ちゃんはアトラクションに乗れないので誰かが残って番をしなきゃいけないから、全員同時には乗車できない。何をするにも時間がかかるので、ディズニーのシステムであるファスト・パスを「学習」して、俺が先回りして各アトラクションの入場券を集めて回ったよ。そんな、親ならきっと当たり前のKodomo12苦労はあったけど、全員が初めてのディズニーシーは細部まで精巧にKodomo8できていてきれいだったし、子供も大人もみんななかなかエンジョイできた。

先週の土日は車を借りて鴨川シーワールドへ。Aちゃんだけは何度も行っているが、シャチに人間が乗って競演するショーは感動的で3度も見たし、Kodomo5ルカやベKodomo11ルーガ(Kodomo9白イルカ)Kodomo10のショーもハイレベルで驚いた。

またまたすごい混雑だったけど、八景島シーパラダイスなんかよりずっと満足感があったよ。でも併設のホテルは割高で質もいまいち… 

そんなこんなだったけど赤ちゃんはやっぱりかわいいし、俺にもすっかりなついて2週間でハイハイもうまくなKodomoo1り、笑顔も素敵になってきた。これに癒されるのが親の醍醐味なのかなあ。

みんなが去った用賀の家はなんだかがらんとして、ちょっと寂しい気分。

いやあ癒されました。またぜひ来てね!

親戚との新しい関係

親戚や家族との心理的距離は、人によっOtaruuu34て大きく異なるもOtaruu1のだ。

生まれてから一番感受性の豊かな時期に育った環境はその人の人格を決定すると言われているけれど、俺も30代になるまではその意味を自分なりに振り返ることもしなかった。

大家族出身のAちゃんと付き合い始めさらには結婚してからというもの、自分の家族との関わりを見直したいという衝動に駆られることが度々あった。大勢の家族メンバー同士が自然に集いながら、そして助け合いながら生きているのを見て、「こっちの方がずっと人間らしいじゃん!」という当然のことに気づかされたからである。

思い返せば俺の家族との関係は決して理想的な形じゃなかった。ここで詳しくは述べないが、長年の錯綜した思いがお互いの間に疑心暗鬼を根付かせ、互いになかなか100%は信用できない関係に低空安定してしまっている。

親兄弟とのやりとりの数自体が少ない方だというのではなく、むしろ今の日本では多い範疇に入ると思う。親孝行だって人並みにはやっている。でも、メールや訪問の頻度と心理的な距離は必ずしも比例しない。心理的につっかかるものがあり心から全部を開示できない用心深さが拭い切れないだけに、逆に良心の呵責があり、せめて表面だけでも交信数を増やそうと意識してきたのかもしれないとさえ思う。

Aちゃんの家族たちのくったくのない笑顔とあけっぴろげな「情報開示」を見るたびに、いいなあって思ってきたけれど、問題あれば解決あり。変えなきゃと思ってきたことを俺が旗振り役になって実行する時が、いよいよやってきたようだ。

北海道に帰省している間には慌しくいろいろな人に会ったけど、俺的には2つ画期的ないいことがあった。

一つは従妹(Mちゃん)夫婦と俺たち夫婦で食事したこと。小さい頃は親戚の家に集まってはよく一緒に遊んだ仲だったけど、社会人になってからしばらく疎遠になってしまっていた。時折親同士含めて会うことはあっても、心を開いて話せなかったのだ。

今回は、ここ2年でお互い結婚したことを期に、札幌で警察官をしている旦那さんに初対面することも兼ねて、小樽郊外のスープカレー屋で4人「水入らず」での食事が実Otaruuu29現した

なんと新鮮で刺激的な体験だったことだろう。 みんなで遊ぶのが楽しみで仕方がなかった、血のつながったいとこの一人。今やお互い成長して自立した大人として、しかも双方伴侶を連れてテーブルにつくってことは!  これからはこの「新世代ネットワーク」を拡充していこうと心に決めたのであった。

もうひとつの「画期的ないいこと」は、親戚を小樽で「発見」したことだ。もう70才になるおじHさんは母方の祖母のお兄さんの息子であり、れっきとした血のつながった親戚である。俺の母とは子供の頃よく遊んでいたらしい。

19歳で小樽を飛び出して、日本人移民船でカリブ海のドミニカ共和国へ移民。3年間ほどコーヒー農園で奴隷のような生活をしたあと、これでは死ぬと思って脱走したという。それから商店経営などをして政府と関係を築きながら徐々に財を成し、40年後に複数のコーヒー農園のオーナーとして帰国。10年ほど前に奥さんと一緒に小樽に喫茶店を構えた。

このHさんは現在の複数事業を運営するなど活動的で、地元では新聞によく載っているほどで話には聞くのだが、俺を含めて俺の直のいとこたちの誰も会ったことがなかった

今回、話していると母親からまたHさんの話が出たので、「じゃあ行ってみよう」と意を決して、母とAちゃんを連れて訪問してみたのだ。

狭い小樽の町、実家から歩いても30分強の場所にあるカフェは、一歩足を踏み入れると異国情緒が漂う。Hさんが出てくるとうちの母を見るなり、

「おおっ お前か!! 近くに住んでいるらしいけど、全然顔見せないじゃないか!」

このHおじさんは親切に時間をとっていろいろ話してくれたのだが、苦労してきているだけでなく、世界中に絡んでビジネスを展開しているスケールの大きい話が聞けて俺は夢中になってしまった。Aちゃんもこういう話は大好きだ。次のアポがあって2時間くらいしかいれなかったけど、あまりに面白かったので小樽を出る前にもう一度時間をOtaruuu17とってもらって訪問した。これを聞いたいとこのMちゃんも、早速行ってみたという。

カフェを運営しているのは奥さんだが、素晴らしいのはコーヒーの味だ。5つの濃さ(苦味)から選べるようになっているが、どれも炒りたてで薫り高く、旨いことは言うまでもない。自分で現役で経営しているコーヒー農園から豆を下ろしているカフェが、日本にいくつあるだろうか?

水瓶座だとか細木数子の水星人やらとかで、家族の縁が薄いと言われる俺。これからはそんな言い訳せず、どんどん親戚との輪を広げていきたいと思っているよ。

考えないクセ

またまたつい、ブログ間隔がかなり空いてしまったなあ~

やっと落ち着いた世田谷の新居にパソコンデスクがなく、ドイツで使っていた朝食用テーブルを兼用しているという言い訳はあるけれど (*^o^*)

今回のテーマは、日本に帰国して気になることのひとつ。

うまくまとまりがある形で言えないんだけど、どうも「考えないふり」をしている人が多い気がして、各所で事あるごとに気になるのだ。

仕事のプロセスとか、顧客対応とか、サービスとか、生活の仕方とか、日常のいろいろな局面で、自分が一人ではない場面は多いだろう。上司とか同僚とかに囲まれているからだ。そういうときに、パターン化していない反応をしてしまう、つまり「既存の枠から外れる」ことを、極端に恐れている人が多いのを感じる。

電話での問い合わせなんかは一番典型的な例だ。何か情報を得ようとして業者に電話すると、「本人確認作業」から始まって次々と形式的なことをペラペラしゃべり、そのくせちょっとしたリクエストにも満足に答えられるだけの知識がない。ひたすら恐縮の言葉を繰り返すことだけは得意みたいだが。。。

型にはまった仕事というのは、世の中にたくさんある。工場の組み立て作業、野菜のパック詰め、レジの会計など、それぞれ大事な仕事であるし、一定の型にはまるものを間違いなく生み出していく精緻さは日本の強みだ。

しかし人間相手のサービス業でそれを行ったらどうなるのだろう。電話問い合わせの場合なんか典型だけど、お互いに「アホらしい作業をしている」ことを十分認識しているのだ。人間と人間の間に昔からあった自然で温かい触れ合いを「サービス標準化のため」に無理やり除去して、マニュアル通りの対応を強制する。顧客からのクレームを除去せんがため、顧客の心の満足も同時に除去する。こうして生まれる殺伐とした環境は、現代社会の悲劇だろう。

ドイツなど欧州では状況が異なっていた。もちろん、大手企業のコールセンターなんかは型どおりの対応を迫られる。でも、欧州人は日本人に比べてできるだけ自分らしく生きたいという欲求が強いので、自動音声かと聞き間違うような抑揚のない声で型どおりにしゃべり続けることはないし、もっと柔軟な対応をしてくれる。だから少なくとも、ロボットを相手にしているような気はしない。この「ロボット社会」については、Aちゃんも、日本で生活する上で一番気に障ることだと言っている。

欧州人は自我が強いから、他の同僚や上司と協力して最善の答えをしようという「気持ち」はあまりない。面倒すぎない範囲で、でも自分らしくリラックスして対応する。でも組織としての全体コーディネーションが悪いから、顧客は自分の要求が通るまで相手を変えて次々と粘り強くトライしないといけないから、欧州で生きていくのは日本より骨が折れる。もちろん誰も謝らないことは言うまでもない。

日本で残念だと思うのは、日本人のいいところを十分に生かした社会体制にすることが、もうできなくなってきていることだ。

議会制民主主義とかから始まって、産業化、IT化などがアメリカ主導で世界的に進んでいく中で、日本はそれをうまく「取り込んできた」んだろう。でも、90年代後半くらいから日本の指導階層のレベルが落ちてきて、今流行の「法令順守などのマニュアル化」などに関しては、全く日本の持ち味を生かしきれない形式的な追随に終わっているようだ。

一般的に言うと、日本人には「相手のことを思いやる気持ち」、「悪いと思う気持ち」、「周囲の和を乱したくない気持ち」が強い。だから、生き馬の目を抜く競争社会の原理や性悪説的な厳しい法体系などは元来必要なく、コンセンサスと調整機能を中心とした社会にしていけば、「肌に合う」社会、みんながもっと自然に生きられる社会ができるのだと思う。

日本にアメリカの原理を導入すると国益を損なうとかという議論はメディアでもいろいろあるけれど、なんでみんなそこまで「国益」にこだわるのかとても不思議だ。そんな高尚なことじゃなくて、国として何十兆円損したとか得したじゃなくて、もっと自分の気持ちに素直になったらどうだろうか。自分たちが自然体で楽しく生きられるために、どんな社会を作ったらいいか考えればいいと思う。

日本人は、いい意味でお互いに遠慮して自我を主張しない傾向がある。そういう社会に無理やり「はやりのイデオロギー」を押し付け、小学校の学級評価は廃止するけど社会に出たら勝ち組と負け組に二分しましょうみたいな極端が強制されているから、みんな混乱させられているように見える。

その副作用が、「考えないクセ」なのかもしれない。現代の職場環境は、上級管理職以外の大半の人の思考力を奪い、感情も無視した定型サービスを強要している。だから、「じゃあ、考えないで言われたとおりやろう」となり、労働時間はロボット作業に徹することになる。みんな、余暇の時間には真剣にニュースを見て、友人と語り合い、いろいろな議論を交わしている。彼らは考えていないのではなくて、考えないことを強要する社会に負けていると言えるかもしれない。

補正予算とかなんとか景気対策よりも、言いたいことを言える住みやすい社会を作り上げていくことが、社会の幸福度アップにずっと役立つんじゃないかと思う。数字で人は幸せにならないからね。

次回はまたまた旅編、ディープな高知の旅で~す!

帰国フィーバー冷め易し!?

光陰矢の如し...

日本に戻って早くも1ヵ月半が経過し、「蜜月」時代は終わりを告げようとしている。

3年間母国を離れていたというのは、時間軸の加速している現代社会においては結構長い時間だ。平均で年に3回程度は仕事やプライベートで帰国していたとは言っても、日本で「生活」するというのは、もはや異文化体験の域である。

日本社会が外見的ないし質的に劇的に変わったとは思わない。3年前に比べて劇的に変わったのは、むしろ俺の方だ。なんたってドイツ赴任前には「生活らしい生活」をせずに典型的独身生活をしていたものだから、そりゃ致し方ない 笑

東京を「再発見」するのに世田谷はベスト・スポットのひとつであろう。洗練されていて、日本で言う「洋モノ」の品揃えがとにかく豊富だ。

ベルリンでよくやっていたように、朝起きてまず焼きたてのパンを買いにベーカリーに行き、低温殺菌の成分無調整牛乳を沸かしてアール・グレーを入れてたしなむことは、世田谷でも同じように可能である。パンやミルクやティーの味や質も落とさずに。これはいい場所に住んだものだ。ヨーロッパから帰ってきて「体を慣らす」にも適した生活環境だろう。

ドイツが嫌いだったわけじゃなくて楽しかったことは間違いないんだけど、それにしても、帰国した時のうれしさといったら、計り知れないものがあった。ここ1ヵ月半くらい、ニッポン社会と俺は、まさしく「蜜月」状態だったってわけだ。日本でしかできない実体験を目の前に心が躍った。自分が勝手に盛り上がっているわけだから、片思いかどうかなんて関係ない。短期の恋って、そういうもんでしょ 笑

例えば、おいしいものを発見しては食べまくって、一人でオタクのように感動を覚えて感慨にふけっていた。駅のソバや牛丼、ラーメンが夢のようにおいしく、夜はお腹もすいていないのに「便利さと味に惹かれて」コンビニでおにぎりを買って全部の味を試していたりした。

どこでも必ず素敵な味だけれど、さすがにグルメの町二子玉川のレベルは高く、食の感動を味わうためによく行ったもんだ。ラーメン特集の雑誌をカバンにしのばせて巡るに到るまで、食にこだわるニッポン社会を徹底して楽しんだ。

喫茶店に入るときには財布をこれみよがしにテーブルの上に置いて本を読み、電車に乗るときはカバンをこれみよがしに棚の上に置いて眠った。「さあ、ご自由に取ってください!無理でしょう!?」と自分に言い聞かせ、仮説を立証して自己満足するってことだけが目的だ。単に、世界でも特異な巨大都市トーキョーの究極の安全・安心を、心ゆくまで満喫したかったのである。もちろん、予想通り何も起きなかったよ。

スーパーなどで何かを購入するときには、あえて相手の顔を見ずに言われた金額を黙ってレジに出し、レシートの受領を求める声を無視して立ち去ってみたり、逆に、相手の顔をじっくり見て「ありがとうございます!」と心を込めたスマイルで返してみたりした。

どっちをやっても相手のリアクションは同じコマーシャル・スマイルだし、どうせ懇切丁寧にマニュアル通りやってくれるでしょ。みなさん、感情を表に出さない教育を受けてます、しっかりと徹底的にね。

「面倒くさいから」気持ちを交わす必要もなく、とにかく一律サービスが提供される日本社会の社員教育の「底固さ」を試してみたかったのだ。結論は‥‥みなさん、かなり毒されてますねえ~

逆に、どこか少しでもサービスが悪いと、丁寧かつ強い口調で「すぐに上司を出せ」風の言い方をして若い子たちをちょっといじめてみたり、彼らがスゴスゴと引くのを見て、これまた悦に浸ったりした。

携帯電話の契約応対なんか、典型だ。客にどやされて、とりあえず畏まるないし謝るのは日本人の得意技であり、それをさらに社員教育で徹底させられている。めちゃくちゃ腰は低いけど、自分たちのやっているサービスの本当の意味をちゃんと理解していないから、彼らは「あとで上司に怒られることを恐れて」単にメチャメチャにびびるわけだ。

みなさん、考えが甘いです。謝ればいいってもんじゃないでしょ。

こういう強硬な「体験」ができる前提は、物理的に日本にいること、プラス、自分が(特に外見的に)日本人であることが前提になる。もし自分(=顧客)が「外人」なら、いくらあまちゃんの日本でもここまで露骨に図々しくはできないし、相手もそこまで真剣に恐縮しないからだ。

外人と話すたびに痛感するが、日本社会で生きる際にニッポン人であることはとてつもない武器になる。おまけに日本のパスポートは強く日本のイメージが一般的にいいものだから、国外でも自然に得をするわけだ。ああ、日本人でラッキー!と心から感謝できる瞬間には事欠かない(注:ただし、前世は日本人じゃなかった可能性高し)。

まっ、日本であまり派手に濫用すると純朴な彼らがかわいそうなので、もうそろそろ打ち止めにするけど...

次回は、興奮冷めて最近気づいてきた、日本社会の諸問題についてで~す!

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